再生医療を身近な選択肢にしたい―たどり着いたのは「カーブアウト」という選択|研究者の挑戦

研究成果の社会実装にかける想い、現在地にたどり着くまでの葛藤や生き様を聞く「研究者の挑戦」。第2回は、再生医療における細胞情報データ基盤を提供するサイトロニクス株式会社(以下、サイトロニクス)代表取締役の今井快多氏にお話をうかがいました。

経済産業省が主催するアクセラレータープログラム『始動Next Innovator 2016』に採択され、スタートアップの世界に魅せられた今井氏。当時勤めていた株式会社東芝(以下、東芝)でも新規事業を推進するための仕組みを自ら提案し、新たに「新規事業推進室」が立ち上がってからは、事業化プロジェクトのマネージャーを務めました。自身でも新規事業を立ち上げ、カーブアウト(親会社から出資を受けて、新会社として独立すること)したのがサイトロニクスです。

起業がしたかったわけではなく、ビジョン実現のための近道がカーブアウトという選択だった」と話す今井氏。いかにして大企業で新しいムーブメントを作ったのか、どのようにカーブアウトを成功させたのか、そのリアルを語ってもらいました。

プロフィール

サイトロニクス株式会社
代表取締役 最高経営責任者(CEO)

今井 快多 氏

1987年生まれ。大阪大学工学部を3年次早期卒業、同大学院修了、学位を静岡大学で取得。2014年に東芝に入社し、CMOSイメージセンサのライフサイエンス応用に関する研究開発ならびに事業開発に従事。CMOSイメージセンサとその応用に関して11年のR&D経験。経済産業省主催『始動Next Innovator 2016』に採択され、スタートアップエコシステムに感化。2018年には東芝内でスタートアップ型の新規事業育成プログラムを提案。2019年より新規事業推進室にてプロジェクトマネージャー。2021年5月にサイトロニクスを創業し、6月末に東芝を退職。

【サイトロニクス株式会社について】

「デジタル技術で再生医療を身近な選択肢に」をミッションに掲げ、細胞培養管理のための装置及びソフトウェアの研究開発および提供を行う東芝発カーブアウトベンチャー。再生医療の細胞製造の現場をデジタル変革するクラウドウェア「Digital Culture Room」や細胞モニタリング装置「Cell Recorder」などを開発。https://cytoronix.com/

父親の病をきっかけに選んだ「工学」の道

ー大阪大学(以下、阪大)工学部ご出身ですが、工学部に進学しようと思ったきっかけを教えてください。

きっかけは人工網膜の研究をしようと思ったからです。実は私の父が目の病でして。私も発症する可能性があったため、思春期の頃は自分の将来についてネガティブに考えていました。

ちょうどその頃、電気刺激で視覚機能を補う人工網膜が盛んに研究されており、国家プロジェクトとして取り組んでいる阪大医学部の先生が講演する市民講座に参加しました。受講後、講演者の先生を捕まえて進路相談をしたところ「人工網膜に興味があるなら、医学と工学の両方が必要だから、工学部という選択肢もあるよ」と言われ、「工学部に進むのもいいかも」と思うようになりました。

ー医学部から工学部へと志望をシフトさせたのですね。

医学が「病気を治す」ことが目標なのに対して、工学なら治療以外にも無限の可能性があるように思えたんです。マイナスをゼロにする医学もすごいですが、工学ならプラスにもできる。そう考えたら工学の世界にどんどん惹かれていきました。

父の病気も、ただ治すだけでなく「すごく見える人工網膜」を開発することだって工学的な見方では考えられるわけです。もともとモノづくりや技術的なことが好きだった私は、人工網膜の研究をしている阪大のラボに焦点を絞りました。

進学後は人工網膜で重要となるCMOSイメージセンサに関する研究を行ってきました。 そして学位取得後は、CMOSイメージセンサを含む半導体事業と医療事業の両方を当時手掛けていた東芝に就職しました。

社外プログラム参加をきっかけに魅了されたスタートアップの世界

ー東芝に入社してからは、どのような業務をしていたのか教えてください。

2014年に入社してすぐに、半導体事業部門の研究開発チームに配属されました。その時の上司が、現サイトロニクスCTOの香西さんです。

サイトロニクス CEO 今井氏左と CTO 香西氏右

当時、香西さんが研究開発していたテーマの一つがCMOSイメージセンサ技術を応用したバイオセンサでした。私もライフサイエンス分野への貢献に強く動機づけられていたので、そのテーマを担当したいと志望しました。その1年後には研究開発を本格化すべく、香西さんと二人で半導体事業部門内の研究開発組織からコーポレート直下の研究開発センターに異動して、約4年にわたり研究開発をしました。しかし、いくら研究開発だけをしても事業化には至れませんでした

ー事業化に向けてどのような課題があったのでしょうか?

基本的に研究開発センターのミッションは技術の研究と開発なので、特に東芝にとって新しい市場に対してどのように事業化していくかを主に検討する組織は当時なく、既存の事業部への技術移管が中心でした。私たちのテーマはまさにそのような市場へのチャレンジだったので、開発した技術を引き取り事業化してくれる事業部はありませんでした。そのため、私が研究者の立場でお客様に研究成果を見せても、製品化の具体的なスケジュールや値段の話も軽率にはできません。 その繰り返しで、研究開発どまりの状況でした

ー何か転機があったのでしょうか?

2016年、経済産業省主催のアクセラレータープログラム「始動 Next Innovator」に参加したことです。私は第二期に応募したのですが、第一期にも東芝の方が参加していて、その方が研究成果を事業化できずに悩んでいる私にその社外プログラムへの応募を勧めてくれたのです。

その社外プログラムには東芝での研究開発テーマではなく、自作した視覚障害者向けのウェアラブルセンサで応募し、採択されました。これは視覚障がい者マラソンに参加している父のために開発したもので「前方走者との距離を音や振動で感じながら安心して走れる」というコンセプトを売りにしたものです。

ー社外プログラムでどのような学びがあったのでしょうか?

スタートアップに関する知識は、そこで初めて学びました 。特に衝撃だったのは、事業をはじめる際に技術が占める重要度は、感覚的に全体の一部でしかないということ。それよりも「どの市場で、顧客のどんな課題を解決するのか。なぜ今なのか。なぜそれを私たちがするのか、できるのか。」といった事業のコンセプトのほうが何倍も大事だったのです。それまでどうしても技術の視点から考えていた私にとっては目から鱗でした。

以前は技術を起点に適用できる市場を探すことばかりをしていました。しかし、技術は結局手段の一つでしかありません。例えば、お客様は課題が完全に解決しないと満足できません。そのためには技術単体ではなく製品やサービスとして使える状態にし、さらに使いこなせるようにサポートするといった総合力が必要になります。

また、参加者の多くは実際に起業しているスタートアップの経営者たちでした。サラリーマンであった私と比べ、彼らの本気度や熱意に圧倒されたのを覚えています。

さらに、私はその社外プログラムの開始時点ではベンチャーキャピタルと高利貸しの違いも分かっていなかったのですが、「成功する可能性が不確実でも、上手くいけば大成功」となる未来を語る起業家を信じ、数億円の価値を付け投資をするベンチャーキャピタルやスタートアップエコシステムの世界に一気に魅了されました。

東芝初のカーブアウトに向けて行われた社内交渉

ー事業化を本格的に意識し始めてからのアクションについて教えてください。

経済産業省プログラムへの参加をきっかけに私は「社内にスタートアップエコシステムを実装すべきだ」と考えました。ちょうど東芝は大きな構造改革の中でした。私は若手発案での新規事業とその仕組みづくりについて検討する取り組みに参加することができ、最終報告として当時の東芝のCEO に、「社内の技術シーズの事業化を支援するアクセラレーションプログラムと、外部投資家も出資するようなファンドを作ること」を提案したんです。

その結果も影響してか、「新規事業推進室」が新たに発足し、CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)機能と社内の技術シーズのインキュベーション機能が実装されました。

ー新規事業推進室が誕生し仕組みはできました。シーズの事業化に向けて後は何が必要だったのでしょうか。

まず、私たちの研究開発テーマが新規事業推進室の事業化プロジェクトとして採用されるためには、事業計画のブラッシュアップが必要でした。ここでは、Beyond Next Ventures(以下、BNV)のアクセラレーションプログラム「BRAVE」に助けられました。社外の新規事業や企業経営に知見のある方がメンバーとなり、数カ月間密に議論させていただくことで、一気に視座が上がり事業計画が具体化されていきました。その甲斐あって、BRAVE終了後には新規事業推進室の事業化プロジェクトになることができました。

次に、なぜカーブアウトなのかについて研究開発部、知財部、技術本部、法務部、財務管理部、経理部などと各部門からみた課題を整理し、解消すべきものは解消しなければならず、ここが一番苦労したところだと思います。それぞれの組織の立場ごとに守るべきことがあります。気合や熱意で乗り切れる問題でもないので、論理的にバランスが取れる方法を考えました。

ーどのような方法で交渉を成功させたのですか?

実は私たちチームは、直接的には東芝の各部門と交渉していません。そこは、新規事業推進室のインキュベーションチームが全て行いました。私たちは、インキュベーションチームに対して、どういう事業が社会的なベネフィットにも東芝のベネフィットにもなるか、ということを整理し、そのために必要なポイントを伝え、一緒に議論しました。インキュベーションチームは各事業化プロジェクトを“投資”とみなして考えており、さらに社外の有識者なども交えて“投資”を実行すべきかを判断します。そして、一旦実行が判断されると、そこから先はインキュベーションチームが社内の交渉や調整をしてくれたというわけです。こういうスキームだったので、「単に今井たちチームがやりたいと言っているだけではないか」というような疑念で議論が発散するようなことは回避できたと考えています。

また、最終決裁者で当時の上席執行役員の島田さんに早い段階でご理解いただけたことも心強かったです。最初は「カーブアウトするって言うけど本気なの?」と何度も聞かれ、その都度事業やスキームの重要性を説明しました。最終的には納得して背中を押してもらえたのは嬉しかったですね。

BNVの金丸さんにもサポートしてもらえたのも大きかったですね。新規事業推進室で事業化プロジェクトになってから、カーブアウトに至るまで約1年半かかりました。その間ずっと隔週に1回のペースで約1年間はメンタリングしてもらいました。前半戦は事業計画のさらなるブラッシュアップで、どういう市場のどんな課題狙うのか、どういうプロダクトを開発するのか、そしてどういうメンバーを揃えて強みを構築していくのかを投資家視点でアドバイスしてもらいました。さらに、その分野に精通する有識者の方を紹介してもらい、一緒にヒアリングにも同席してもらうことも度々ありました。

サイトロニクス CEO 今井氏左とBeyond Next Ventures キャピタリスト 金丸右

東芝内で「カーブアウトを実行して良い」となって以降の後半戦は、カーブアウトスキームの詳細を詰めていきました。特に私たち創業チームを含めた保有株式の割合、契約上の義務や権利、そして当社の強みの源泉である特許をどのように扱うかという論点については社外の有識者も交えて様々な検討をしました。創業チームが議決権のマジョリティを持つようなカーブアウトは非常に新しい形だったので、国内で参照できる事例がほとんどなく苦労しました。また、創業チーム、東芝、ベンチャーキャピタルの間で利害が一致しない部分があるので、時にヒリヒリするところもありましたが、どうにかまとめることができました。

ーBeyond Next Venturesから2021年6月に資金調達を実施していますよね。最初からBNVに投資してもらうことは計画していたのですか?

いえ、最初から資金調達先をBNVに絞っていたわけではありません。ただし、カーブアウトも視野に入れて想定していたVCのリストには入っていました。BNVはこれまで投資している企業も私達の領域に近いですし、NEDO認定VCでもあります。また、再生医療にもハードウェアを含めたディープテックにも明るいので、的確なサポートを受けられると思ったのです。

また、カーブアウトという意味では、私たち以外の社内起業チームを支援されています。なかなかスキームの詳細は開示されない世界なので、BNVは現状国内の大企業発カーブアウトでパイオニア的なポジションにいるかもしれませんね。

「デジタル技術で再生医療を身近な選択肢に」の実現に向けて

ー大企業からのカーブアウトはまだ成功事例が少なく、多くの方が道半ばで諦めてしまっているのが現状です。今井さんが様々な困難を乗り越えて、起業できたモチベーションについて教えてください。

私は「カーブアウト」や「起業」がしたくて頑張ってきたわけではありません。自分たちが成すべきだと考えられることに対して、私がやるべきことをやる。そのために最適な手段がカーブアウト、起業だっただけです。

再生医療のように、市場がこれから立ち上がるという意味で先の見えない事業領域は、大企業はなかなか手が出せません。大企業はある一定程度以上に確実に利益が見込める事業領域に投資すべきです。一方でベンチャー企業は大企業が手を出さない先行きが不透明な領域にチャレンジすべきではないでしょうか。どちらが優れているということではなく、それぞれの得意な領域で勝負すればいいだけ。

私たちは再生医療市場において大きな事業性のビジョンを感じたため、大企業の中で既存事業にはまるようにやるよりも、スタートアップとして思い切った事業成長を目指す方が理に適っているし、東芝にとっても社会にとっても良いと考えました。カーブアウトや起業といった「手段」に囚われるのではなく、何をしたいのか「目的」に合わせて最適な手段は選ばれるべきだと思います。

ー今井さんの叶えたいビジョンはなんですか?

会社のミッションである「デジタル技術で再生医療を身近な選択肢に」は私個人のミッションでもあります。再生医療を社会実装していくことで、一部の高所得者層や先進国だけではなく、誰もが最新の医療を受けられるようにしていきたい。さらに言えば医療全体を民主化し、誰もが手軽に先進医療を受けられる社会の実現に貢献したいです。

ー最後に、これから研究成果の実用化を目指す方へメッセージをお願いします。

挑戦せずに後悔するのはもったいないです。皆さんの研究成果が実用化され社会実装されることで救われる人は、きっと少なくないでしょう。もしも実用化に挑戦せずに、その人たちを救えなかったらきっと後悔するのではないでしょうか。できない理由やうまくいかない要素は無限と感じられるほどにありますが、できる理由を探して頑張ってほしいと思います。

Beyond Next Venturesより

当社では、革新的な研究成果の実用化に取り組む研究者の方々と共に、様々な課題解決に取り組んでいます。資金調達、会社立ち上げ(創業)、初期段階の事業計画の作成、助成金申請、経営チームの組成等にかかわるあらゆる支援を行っております。ご自身の研究成果の社会実装に挑戦したい方は、ぜひ弊社にご相談いただけたら幸いです。
お問い合わせ先:https://beyondnextventures.com/jp/contact/

Beyond Next Ventures

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